| ◆ 母の再婚 ◆
私が十歳のとき、実の父が亡くなり、その二年後の中学一年のときに、母は知人の勧めで義父と再婚しました。女手一つで私を育ててくれた母が再婚することで、生活も安定し、ぬくもりある家族団らんを想像していました。
ところが、義父との生活は、私にとってはつらいものになったのです。再婚してまもなく、義父の女性問題などで泣いている母の姿を見ることが多くなり、そんな義父が憎たらしく思えてきたのです。
母は、私と義父との間に立って気をつかっているのがわかりました。そんな母の立場を考えると、義父に文句を言うこともできず、悔しさでブルブルと震える自分の拳を抑えるのが精いっぱいでした。しだいに義父と私は、生活するなかでも距離を置くようになりました。家の中で顔を合わせても口もきかず、食事も私は台所、義父と母は居間で食べるといった状態でした。
考えてみれば、義父と一緒に住むようになってから高校を卒業して家を出るまでの六年間、一度たりとも義父と母と一緒に食卓を囲んだことがなかったのです。
◆ 義父への憎しみが頂点に ◆
高校の卒業式を間近に控えた私は、義父から「家を出るように」と言われ、卒業式を終えるとすぐ、父の用意してくれたアパートで独り暮らしを始めることになりました。
八畳一間に寝具一組とタンスとテレビだけのガランとした部屋で、たった一人の生活……。寂しさと孤独感でいっぱいでした。
私は中学三年のとき、母が立正佼成会に入会のご縁をいただいていたこともあり、当時から何かと心配してくださっていた主任さんに、自分の気持ちを聞いていただくという毎日でした。そして、悔しさと孤独感から抜け出したくて、私は毎晩、仕事を終えると真っ先に富山教会へ行き、青年部の活動に参加させてもらうようになったのです。
しかし、そんなある日のことでした。私は、義父から戸籍を抜かれていることを知ったのです。私の義父に対する憎しみは、すでに頂点に達していました。
「ぶ、ぶっ殺してやる!」
悔しさでいっぱいでした。私は「義父を殺してやろう」と、実家に向かって車を走らせました。しかし、実家の玄関戸に手をかけてみると、鍵がかかっており、家の中には入れませんでした。「チクショー!」。怒りを抑えきれぬまま、私はアパートに帰り、布団の中にもぐり込みました。そんな悔しさと孤独感で、何度、枕を涙で濡らしたことかわかりません。
私は、実の父が生きていたころの温かくて、楽しい家庭を思い出していました。そして、「もう、こんな思いはしたくない……。いまの生活からなんとか脱出したい! オレは結婚して、かならずぬくもりのある家庭を築くんだ」と願うようになっていました。
その願いが唯一、私の心の支えとなり、私は以前にも増して、主任さんや組長さんと一緒に手どり修行やお供修行に歩かせていただくようになりました。そうした行を一つひとつ実践することで、私は安心感を得させていただいていたのです。と同時に、さまざまな家庭の姿や、いろいろな人の思いを知ることができました。そして、義父への憎しみがわいてくると、そのつど主任さんに話を聞いていただいたり、無心にご供養をあげさせていただくことで心を静めていました。
◆ 「お義父さん、ありがとう」 ◆
そんな私が二十五歳のとき、友人の一人から「離婚した父親を恨んでいる」という話を聞いたのです。私は、自分と同じような境遇の仲間のことが気にかかり、支部長さんにご指導をいただくと、「あなた自身は、お義父さんに対してどんな思いでいるのかしら?」と聞かれたのです。私は、支部長さんの言葉で、あらためて自分の心に問いました。すると、不思議と「オレは、義父からすれば他人の子。それなのに高校まで卒業させてくれた……。そんな義父に、本当は感謝しなくてはいけないんだ!」と思えたのです。そして、いつしか「殺してやろう!」とまで思っていた義父に対しての憎しみが消えていたのです。
その気持ちを当時の伏見佳子教会長さんにお話しすると、「その思いを、お義父さんに伝えなさい」とご指導をくださいました。私は、勇気を出して七年ぶりに義父のもとを訪ね、それまでのお詫びと、高校まで卒業させていただいたお礼を言わせてもらったのです。すると、無口な義父が「また遊びに来いよ」と言ってくれたのです。私の胸の中のわだかまりが、スーッと消えていくようでした。そして、私と義父の間に入って、息子にも声をかけてあげることのできなかった母の思いをわからなかったことに、申し訳なさでいっぱいになりました。
その後、教会のお役を通して妻の成江と出会い、結婚しました。それまで暗く、誰もいない部屋に一人帰っていた私は、いま、「待っていてくれる人がいる」という、本当に幸せな日々をいただいています。
(『Shunko』2004年vol.2より転載) |