先日、妻がアルバムを取り出し、娘の写真を整理していた。妻の愛情こもったメッセージ付きのアルバム。幼稚園の時から撮りためたものだ。きっと我が家の宝物になるだろうと思いつつ覗き込むと、入園当初のおかっぱ頭のあどけない娘が写っていた。あれから一年。今では長髪を三つ編みにし、いろいろとファッションを気にするようになった娘の成長に、「無常」を痛感させられた。成長は、身体だけではない。本当によくしゃべるようになった。大人顔負けのことを言う時も、しばしばある。
夢中になって話す妻の熱弁を聞き流し、テレビを観ていた時のこと。突然テレビ画面が消えた。もともと調子が悪く、一日に何度もあることなので、「あっ、またか」と思った程度だった……が、娘曰く「ママの話をちゃんと聴きなさい、ということじゃない」。まるで主任さんのように私を諭すのである。テレビが消えたことに意味を見いだし、それをメッセージとして受けとめた娘に、たいしたものだと感心させられた。
ついこの間なども、ご宝前のある六畳間の和室から、のっそり現れた娘が「パパ、ちゃんとご供養してないでしょ。そんなことだと仏さまが守ってくれないよ!」などと神懸かったことを言うのである。私は急に恐ろしくなり、その晩は一生懸命、ご供養をあげた。そして、脇で見守る娘に何気なく聴いてみた。「仏さまの声が聴こえるの?」。どんな答えが返ってくるかと期待していると、「あたり前でしょ。私の心には仏さまが住んでいるのよ」と、娘はさらりと言った。その見事な返答に、実に感服させられたものだった。
妻の胎内にいる時から教会に行き、生まれてからはサンガの人びとに愛され、ごく自然に、仏さまと対話をするようになった娘。そんな彼女から、「信仰とは何か」を教えられている。信仰との出合いは人それぞれであり、成長に応じて深まっていくものであろう。ただ、娘の姿を見ていて、「三つ子の魂、百まで」と言われるように、早い段階での信仰の種まきには、やはり大きな意義があると実感するのである。
親として、子供の身体の成長はうれしい。まして心の成長となれば、もっともっとうれしい。思えば私の両親も、同じように願いをもって私を育ててくれた。早い時機を選び、仏さまのところへ連れていってくれた両親に、心から感謝している。私の中の“信仰の種”は、だいぶ成長したのかな……。
(K.I) |