ある休みの日、息子とNHKのテレビ番組を見ていて、自分の目を疑った。
元大関のKONISHIKIが派手な衣装をまとい、「祇園精舎の鐘の声……」と『平家物語』の一説を繰り返す。狂言界のプリンス・野村萬斎は、「ややこしや、ややこしや」と叫びながら、日本独特の舞いを披露する。街角で働く若者は「じゅげむ、じゅげむ……」と落語に登場する滑稽な長い名前を暗誦し、ガッツポーズをしてみせた。
〈これはいったい、何の番組なんだろう?〉。新聞のテレビ欄に、『日本語で遊ぼう』とあった。子供たちに日本語独特の豊かな表現に慣れ親しんでもらい、「日本語感覚」を身につけてもらいたいというものらしい。確かに日本古来の物語や俳句、短歌など日本語の文化は自然と深く馴染み、非常に情緒が豊かであると思う。
しかし、今実際に私たちが使っている日本語はどうだろうか。私には自然に親しむ感性が薄れつつあるように感じてならない。私たちの生活形態は古来のそれと全く違う。自然界とつながりのない人工的な「便利のよい生活用品」の出現により、生活が変貌したからだ。真夏には冷房、真冬には暖房。ボタン1つでテレビを見ることができ、洗濯ができ、米も炊ければ湯を沸かすこともできる。今やマイナスイオン付空気清浄機まで登場した。とても快適な暮らしができるようになり、自由で気楽な時間も増えた。しかし、その一方で失われたものも数多くあるのではないだろうか。その1つが情緒豊かな日本語と、日本人の感情である。
ある文学者から、日本古来の情緒豊かな日本語がなくなればなくなるほど、日本人独特の感情も同時に失われると聞いた。日本人のアイデンティティとして、どんなに便利な時代になろうとも、古人が残してくれた自然に感応する情緒的な日本語と、豊かな感情をいつまでも持ち続けたいと願って止まない。
(M.M)
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