| ともすれば私たちは、「損より得」「負けより勝ち」「失敗より成功」のように、マイナス面よりプラス面を要求しがちです。つまり、自分にとってプラスになれば救われであると受けとめてしまうわけです。しかし、自分にとってマイナスなことは、まったく排除してもよいのでしょうか。
剣道の格言に「負けに不思議の負けなし」という言葉があります。試合に負けるには必ず原因があり、その敗因を十分に反省・分析したうえで稽古をして、次の試合に備える必要性を説いたものです。
また、工学分野では「世界の大惨事」と呼ばれるほどの吊り橋崩壊の原因を徹底分析し、自励振動という現象とそのメカニズムを明らかにしました。その結果、現在の吊り橋技術の飛躍的進歩につながったそうです。
このように、マイナスを肥やしにしてその後の発展につなげていく事例は、世の中に数え切れないほどありますね。これは、私たちの人生においてもあてはまるのではないでしょうか。
会長先生は、次のようにおっしゃっています。
いのちの尊さに気づくことが、私たち人間のいちばんの大事です。貧・病・争に代表される苦をなくすのがゴールではなく、むしろ、それらの苦との出会いを契機として、仏法との結縁に感謝する信仰生活がスタートするのです。
私たちは、釈尊が悟られた真理・法を認識し、いのちの尊さに目ざめることによって、どのような苦をも乗り越えることができるのです。貧・病・争の苦にも有り難く感謝できるのです。
一人ひとりが無常の法を認識して、自分のいのちの尊さに気づき、一切の生きとし生けるもののいのちを尊んでいくところに、本質的な救われがあるのです。
(『心田を耕す』)
無常の法の認識というのは、端的に表現すると「自分も周囲も変化していることをつかむ」ということになります。言い換えれば「自分だけの考え方に固執しないで、周囲の状況もよく理解して生きていこう」とも解釈できます。自分の価値観を周囲に受け入れてもらうと、うれしいものです。それは、周囲の人や環境の立場に立ってみても同じことです。自分を大事にしてほしいからこそ、まわりも大事にしていく。それが自他ともにいのちを尊んでいくことにつながるのではないでしょうか。
ある体験談を紹介します。
Aさんの勤める会社に一人の青年が入社しました。Aさんの娘・B子さんは、中学時代、その青年からいじめを受け、四ヵ月間、登校拒否をしたことがあったのです。
悲しいことに、最初、Aさんは青年への復讐を考えていました。しかし、直接の上司となり、仕事の指導や酒の付き合いを続けるうちに情が移ってしまったのです。純情で涙もろい彼を、Aさんは息子のようにかわいがりました。
二人の関係を知ったB子さんの心は穏やかではありませんでした。「お父さん、どういう神経をしているの。私をばかにしないで!」。B子さんは青年にも怒りをぶつけていました。
翌日、Aさんが会社に行くと、目を真っ赤に腫らした彼がいました。「B子さんのお父さんとは知りませんでした。なのに、僕に親切にしてくれて……ありがとうございます」。彼はAさんに辞表を手渡しました。約十年間、その胸には自責の念がくすぶり続けていたのです。
家に帰ると、Aさんは娘に辞表を預け、青年の言葉を伝えました。しばらくすると、その辞表を持つ手が震え、彼女の目に涙があふれました。B子さんも社会人一年生、会社の人間関係で悩む事も少なくありません。父と青年の姿は、彼女に何かを投げかけたのです。
B子さんは辞表を父に渡し、「ごめんね、お父さん。これ、彼に返して。お願いね」。Aさんのまぶたには、あの人懐っこい笑顔が映っていたのです。
(『佼成新聞』続・法華経のこころ)
もしAさんが、彼に復讐をしたら、B子さんの味わった辛さも一瞬は和らぐかもしれません。しかし、涙を流して感動するような思いはできなかったのではないでしょうか。
彼女にとって、この青年は許しがたい存在だったに違いありません。父の部下になっていること自体、大きなマイナスと思ったことでしょう。しかし、彼の葛藤しながらも努力して変化した姿に触れたときたとき、B子さんの頑なな心も氷が溶けるように変化しました。彼のいのちの尊さにめざめると同時に、彼女自身もいのちの尊さにもめざめたわけです。まさしく、本質的な救いにつながったといえましょう。 |