――「仏さま」のイメージ
「仏さま」と聞いて、皆さん は何をイメージされますか。 お釈迦さま、奈良の大仏、亡くなった人、手をとってくれた人など、さまざまなイメージが思い浮かびます。そこに共通するのは「優しく見守ってくれる」イメージではないでしょうか。
立正佼成会では、信仰の対象としている「仏さま」は「久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊(本仏釈尊)」です。ひと言でいうと
「私たちを生かしてくださる宇宙の大生命と、それをお説きくださったお釈迦さま」という意味です。
宇宙の大生命と聞いてもピンとこないかもしれません。
自分の胸に手を当ててみましょう。私たちの意志とは無関係で心臓は動きます。また呼吸も、五官の働きも、自分の意志で働きを与えているものではありません。さらに私たちの体そのものも、親によって与えられたものであって、その親のいのちは、遠い祖先や人間以前の生物から受け継がれてきたものです。
そうすると私たちの体を精密な組織体として成り立たせ、ものを感じたり、考えたりするのに必要な能力を与えてくれたのは何なのでしょうか? 実は、その大いなる力、ありとあらゆる存在の根源である宇宙の大生命こそ「仏さま」にほかならないのです。
ご承知の通り、お釈迦さまは二五〇〇年前にインドの釈迦族の太子として生まれ、悟りを求めて出家されたのですが、六年間にわたる厳しい修行の末に悟りを開かれました。お釈迦さまは直観によって、私たち人間を含めた宇宙のありとあらゆる存在が、形こそさまざまでありながら、宇宙の大生命によって生かされている存在であることを見通されたのです。
お経の中では、「仏さま」はよく親に例えられます。
「慇懃に毎に其の子を憶う」 (妙法蓮華経信解品第四)
仏さまは、言葉に表さなくても、その子が受けとめられるような思いを繰り返しかけ続けてくださっているのです。
小学校六年生の夏、学年の親子マラソン大会に、父が「一緒に参加したい」と言い出した。私はすぐさま「いや」と返事をした。
「いや」と言ったのには理由があった。父は同級生のお父さんたちよりも老けて見える。それが恥ずかしかったからだ。若白髪のため頭は真っ白だ。
〈もっと若くてかっこいいお父さんがいいな〉そう思ったこともある。そのことを私は一度も父に言ったことはない。アレルギー性皮膚炎のため、髪の毛を黒く染められないことも知っていた。
マラソン当日。私は一等でゴールした。「一等とった」。その言葉に涙をこぼして喜んだ父。玄関には、この日のために用意した父の白いスポーツシューズが置かれていた。心が痛んだ。一緒に走りたかったに違いない。でも父は二度とそのことを口に出さなかった。「ごめんなさい」と言えなかったことが、今でも悔やまれてならない。
脳内出血で父が倒れてから半年。今、父はベッドの上からまばたきで私の言葉に応えてくれる。言葉はなくても、父の思いは昔と変わらず伝わってくる。小さいころの出来事を思い出すたび、真っ白な髪の毛と満面の笑顔が浮かんでくる。今度こそ一緒に……そんな気持ちで父に新しい靴を買った。
(『佼成新聞』続・法華経のこころ)
ふと、幼いころの思い出を振り返ってみると、親の顔がしみじみとこみ上げてきませんか。見守ってくれる安心感、厳しさの中に込められた優しさ……。
その親のように、私たちを優しく包み込んでくださる「仏さま」。その思いを象徴しているご本尊像は、大聖堂をはじめ皆さんの教会や法座所にご安置されています。参拝させて頂くと、優しい微笑をたたえて、わが子を迎えてくださるような安心感に包まれますね。
現在、大聖堂に安置されている本仏釈尊像は、右手が施無畏印、左手が与願印を示しています。わかりやすい言葉でいえば、右手は「心配することはないよ」という印相であり、左手は「だから、この私(本仏釈尊)の手につかまりなさい」ということを示しているのです。「一切衆生はことごとくわが子である」と、自ら親子の名乗りをしてくださった仏さまのお気持ちを、これほど正しく表現したお姿はないと私は確信しております。
(『瀉瓶無遺』)
朝夕のご供養のとき、大聖堂や教会に参拝されるとき、どうぞ「仏さま」と静かに対話をしてみてください。仏さまに優しく見守られている実感を味わうことができます。 |