「説くべきか、説かざるべきか」と迷われた釈尊
「寄なるかな、寄なるかな。一切衆生ことごとくみな、如来の智慧・徳相を具有す」
これは釈尊がお悟りを開かれ、生きとし生けるものが仏と同じように尊い、光り輝く存在に見えた瞬間のお言葉です。
しかし釈尊は、菩提樹のもとでお悟りを開かれたあと、すぐに布教伝道に歩かれたわけではありませんでした。
あまりにも真理が深遠なるがゆえに、しばらくのあいだ、「自分が得たこの悟りの内容を人びとに話してもわかってもらえるのだろうか。いや、わかってはもらえまい。自分一人の胸に秘めておくべきではないか」と、逡巡されたことが伝えられています。
そして、自分の悟った法を人びとに伝えるべきかどうか、釈尊が迷っていたときに梵天が現れて「人びとのために、ぜひ法を説いていただきたい」と勧められたのが、有名な梵天勧請です。これは釈尊の胸中に「説くべきか、説かざるべきか」という葛藤があったことを示すエピソードといってもいいでしょう。
その後、心を定められた釈尊は、ついに人びとに自分が悟られた真理を伝えるために立ち上がられ、布教伝道に生涯を捧げられたのです。
葛藤は素晴らしい 葛藤が自分を磨く
私たちも日ごろ、手どりやお導きをさせていただくなかで、迷ったり、葛藤したりすることが少なくありません。
ここで私がみなさんに申し上げたいのは「葛藤は素晴らしい」「葛藤が自分を磨く」ということです。なぜなら葛藤とは、物事に対して「どうでもいいや」と、いい加減に考えている人の心の動きではないからです。<このままではいけない><もっと高まりたい>という成長・向上があるからこそ生まれる思いです。その意味では、葛藤とは仏性の現れといってもいいでしょう。
しかし、現実に葛藤を抱えているときは、やはりつらく苦しいものです。誰もが、心が乱れたり、迷ったりすることのない生き方をしたいと思うでしょう。
では、葛藤を乗り越えるためにはどうすればいいのでしょうか。それは仏さまとしっかり対峙することです。絶対的な「信」――現実に目に見える世界ではなく、目に見えない仏さまと一体の世界を感じていくことが大切です。
「信」によって「慈悲」と「智慧」が生まれる
この法によって、すべての人が救われる――この絶対的な「信」が強ければ強いほど、一人でも多くの人をお救いしたいという「慈悲」が生まれ、同時に相手にこの法をわかってもらえるための「智慧」もわいてくるのです。
仏教教団である立正佼成会の原点は釈尊です。釈尊が何を求め、何を悟られたのか。そしてどういう心で布教伝道されたのかを求め続けていくことが、私たちの信仰姿勢です。
私たちは釈尊の悟りを求めるために布教をし、布教することで悟りを得ることができるのです。会長先生は「布教なくして宗教なし」とおっしゃられています。それは同時に「布教なくして悟りなし」ともいえるのです。
青年のみなさんは日々、悩み、迷い、葛藤しながらも、お役や青年部活動に励まれているここと思います。
しかし、それらは人さまを救うため、教えを伝えるために必要な経験なのです。ちょっと話をして相手が聞いてくれないと、「あの人はダメだ」とあきらめてしまう自分なのか、根気強く話せば「この人は必ずわかる人だ」と信じて、かかわり抜ける自分なのか。
どうか、目の前の青年一人ひとりに向き合い、相手の仏性を拝みながら法を伝えていっていただきたいと思います。そうした日々の布教伝道に取り組むなかに、自己の成長や悟りにつながる、すべてがあるといっても過言ではありません。
合掌
『春光』13号 より
(08.04.21
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