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「今年の年頭法話は、私のために書かれている」。ちょっと驕慢な表現かもしれませんが、私は、そう感じました。なかでも、『仏の前に跪く、帰依する人間に』という言葉は、しばらくそこから目線を外すことができなかったくらい、私の心にグッくるものがありました。なぜならば、そのことこそが、私が、青年部長というお役を1年間させて頂いて、やっと気づかせてもらったことだったからです。
このたびは、会長先生の年頭法話をかみしめる機会を与えて頂き、有り難い気持ちでいっぱいです。この機会を通して、私自身が核心となるものをしっかりと把握できるよう、願いをもって、年頭法話を拝読させて頂きたいと思います。
はじめに『新たな出発の年を迎えて』とあります。私が、この中で大切だと感じたのは、『開祖さまによって救って頂いた喜びを、今度は、より多くの人にお伝えする時を迎えたと受けとめています。自灯明・法灯明の立場で、人さまをお救いすることに向けて、皆が心を一つにして精進する――その誓願を、お互いさまに打ち立てさせて頂きたいものです』というところです。
私は、昨年開催された「第8回WCRP世界大会」に、オブザーバーとして参加させて頂きました。あの時の感覚、「世界平和の達成は、決して不可能な夢物語ではない。開祖さまが築き、われわれに残してくださったこの道がある限り、いつかきっと、平和な世界をつくることができる」という思いは、今でも私の体の中に残っています。だからこそ、私は、「開祖さまによって救って頂いた喜びを、今度は、より多くの人にお伝えする時を迎えた」という会長先生のお言葉を、しっかりと胸に刻み、第8回WCRP世界大会で特に心に残った「対話」と「知ること」という2点を大切にしながら、新たな年の出発を切りたいと思います。
次に、『法に目醒め、人さまに伝える』とあります。その中で、まず心に響いたのが、「人の生を受くるは難く、やがて死すべきものの、いま生命あるは有難し」という、法句経の一節です。初めて聞いたというわけではありません。しかし、なぜなのでしょう、今の世の中に必要で、そして、一番大切なことが、この一節に含まれているとたしかに感じるのです。いつから私は、子が親を殺し、親が子を殺すことに驚かなくなってしまったのでしょう。いつから私は、平気で食べ残しをするようになってしまったのでしょう。今月の「佼成」の会長先生のご法話にあるように、両親からは、ご飯粒一粒でも無駄にしないようにと教えられてきたのに。
私は、自他の生命の不思議・尊さ・有り難さというものに、もっと意識を向けたいと思います。別の言い方をするならば、すべてのことに対し、もっと思いやりをもって接することのできる人間になりたいと思います。また、『仏教は、自覚の教えです』ということと、『ただ自分だけが喜びを味わっているのでは、大乗の自利利他を目指す信仰者として、本当の意味で自立したことにはなりません』という二つの言葉から、私は、会長先生が信仰新生の「全国布教」で神奈川教区に来られた際に教えてくださった「信仰は、個人のもの。このみ教えは、みんなのもの」という言葉を思い起こしました。
私は、この二つの言葉から、正直胸にチクッと突き刺さるような感じを覚えたので、あまり自覚がなかったように思います。この機会に、あらためてそのことを明確に心に刻んでいきたいと思います。そして最後に、『仏の前に跪く、帰依する人間に』というところです。私が、お役を頂いた当初に心がけていたことは、「リーダーたるもの、自分が花となるのではなく、花を育てる肥料役に徹することが大切だ」という、開祖さまのお言葉です。そして、今までまわりに支えられていた存在から、部員さんを支え、その思いを受けとめることのできる私へと成長していきたい、と思っていました。しかし、現実は理想通りにはいきませんでした。もちろん喜びもたくさんありましたが、正直しんどいことの方が多くあり、その中でも一番もどかしかったのは、「自分が思っているほど、自分の思いは相手には伝わらない」ということです。また、それとは逆に、相手のことを分かってあげているつもりでも、なかなかその思いを感じ取れていなかったということもあり、人と人との関係をつくっていくのは、本当に大変だということを痛感しました。
特に、昨年次の後半は、青年部全体がなんだかギクシャクし、年長の青年部員と若手青年部員との間に、深い溝ができてしまったかのようになってしまいました。そんな雰囲気の中、ある会議で、私は、感情を抑えきれず、Aくんを怒鳴ってしまいました。私は、昨年、特別青年幹部教育のお手配を頂き、一年間第四課程の教育を受けさせて頂いたのですが、Aくんは、教育の中で人材育成の対象として考えていた大切な部員さんでした。怒鳴ってしまったのは、第四課程終了のほんの数日前で、1年間何を学んできたのだろうと、自分が情けなくなってしまいました。また、ある中堅の担当さんから、「今の湘南教会青年部は、危機的状態にある」という言葉を投げかけられ、〈自分には青年部長としての器量などないのだ、35歳になったら壮年部に移行し、青年部から離れよう〉と思ったこともありました。なんでこのようになってしまったのか。原因は、分かりそうで、分かりませんでした。自分のこの心が違うのか、また、相手に対して、こういう心配りをしていけばよいのかと、いろいろもがきはしましたが、結局は、あまり変化はありませんでした。今までは、「自分が変われば、相手が変わる」というように、すべては自分次第でどうにでもなると思っていました。また、実際それで何とかなっていました。しかし今回ばかりは、もうどうすればよいか、自分では分からなくなってしまったのです。
そこではじめて、「仏さま、もう私の力ではどうすることもできません。すべてをお任せいたしますので、どうか、助けてください」という気持ちで、ご宝前の前に座り、仏さまと向き合ったのです。と、その時、私のまわりの空気が、春の空気のように暖かくなるのを感じ、そして、何も心配することはないのだよ、という、仏さまのお慈悲をたしかに感じたのです。そこで私はハッとしました。これまでは、自分が中心となって青年部活動を進めているのだと思っていました。しかし、それは思い違いだったことがわかったのです。そのことに気づいた時、私は、自分の中心に何を持ってくればよいのかということを、はっきり自覚できたのです。そしてそれは、仏さま以外にありません。仏さまに跪く姿勢こそが、私には必要だったということに、気づかせて頂いたのです。
今、あらためて言うことができます。私は、青年部が大好きなのだと。
最後に、自分の成長が、湘南教会青年部の成長につながっていくのだということを自覚し、そして、すべての現象は、仏さまが必要あってお示しくださっていることであり、そのお慈悲の中で生かされているのだということを忘れないよう、今年一年、精進させて頂くことをお誓いいたします。
(2007.03.02 記載)
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